白シャツを恋い慕う

つれづれなるままに…おたく

ハプスブルク600年を背負った皇帝。

フランツ・ヨーゼフ
ハプスブルク「最後」の皇帝
江村洋 東京書籍

フランツ・ヨーゼフ―ハプスブルク「最後」の皇帝

フランツ・ヨーゼフ―ハプスブルク「最後」の皇帝

フランツ役の万里生くんが紹介していたので読んでみようと図書館から借りてきました。
約400ページにひたすらフランツの事が書いてある本は他にはないと思うので、ミュージカルエリザベートのフランツに興味を持たれた方もおすすめしたい一冊。
素朴なフランツ像がなかなか面白いです。


普段本を読んだからといってブログにまで感想を書いたりしないのですが、エリザベート関連は一冊一冊から受けた印象を忘れたくなくてとりあえず歴史の勉強がわりに書き起こしてみます。年表だらけでまとめることも、世界史が苦手な私にはすごい勉強になりました(笑)
レポートのような膨大な量ですが、フランツ、ルドルフを中心に史実をまとめてあります。主観も入りますが、よろしかったら続きからご覧ください。




※全体的な雑感
読み終えた時に思ったのはフランツ・ヨーゼフは日本的にいくと徳川400年でなんとなく堅実な功績はあれどあまりメジャーではない(前後が派手すぎる)徳川秀忠みたいな人だったのかなと。
ただ、フランツは初期の人間ではなく、末期の人間というのと幕末にいがちな生まれてくる時代が違った典型例とも感じた。
まあまあ有能で誰にも邪魔されず在位68年(18歳で帝位)という長期政権、しかし無味乾燥としていて派手なエピソードは持ち合わせていない印象。


宝塚作品でいうとルードヴィッヒ二世(愛華、ルードヴィッヒ二世の生涯のお話)、落陽のパレルモ(春野、イタリア独立のお話)、ソルフェリーノの夜明け(水、アンリ・デュナンのソルフェリーノ開戦での功績のお話)辺りにちゃんとフランツ・ヨーゼフが生きているということを、世界史と年号に疎い私はこの本を読んできちんと認識した。(他にもあるかもしれないが、自分が見た中で単語がひっかかったのはこれぐらい)
しかも、彼やエリザベートは何らかの形で史実で関わっていることを知った。
勿論、エリザベートを題材とした「エリザベート」、ルドルフを題材とした「うたかたの恋」はいうまでもない。

そう考えると、とりあえず周囲が派手なのだ。
暗殺、謎の死。どれも脚色し題材にしやすいので作品となり親しまれている。しかし彼を真ん中に取り上げたものが少ないのは、死ぬまで聡明で実直な人柄の皇帝だったからだと思う。

「われは見捨てられし者なり。最後の息絶えるまで戦う者なり。名誉のうちに滅びゆく者なり。」

決して英雄とはいえない、真面目な皇帝らしい言葉だ。
ナポレオンの3時間睡眠の逸話はメジャーでも、フランツ・ヨーゼフがそれに近しいことをしていた時期もあり、普段は朝4時起き、私服は着用せずに軍服のみですごし、食事の手間を惜しんだことは知られていない。在位の割には常に勤勉で地味すぎるのだ。

他に興味深かったのは、感情のあらわれた書簡がなく義務的に書かれているとか浪費家のエリザベートに出すお金はあるのに自分自身は裏面にメモをして渡すなど倹約家であったこと、そしてカタリーナシュラットという女優の話だろうか。色恋ではないが、エリザベートが世話した親しい関係の女性が彼女である。エリザベート自らが世話したのにも関わらず、彼女の容姿をからかい、嫉妬したような記述がある。エリザベートとの複雑な夫婦関係同様、精神的には男女に近い複雑な友人。といった印象を受ける。愛人が複数とかド派手な関係ではなく、込み入った感じが真面目なフランツらしいように感じた。
政治理念に関しては後述する。


エリザベート
彼女との対比が非常に面白く、ミュージカル「エリザベート」では対立という形を抜き取っている印象だが、実際の人物としては確かに二人の性格はまったく相容れないが、手紙など書簡のやり取りやエリザベートがフランツを擁護するような点もあり、同居している普通の夫婦とはまた違うかもしれないが、なにか同志のような絆を感じた。
エリザベートは詩的で感受性深いが、この本のフランツは真逆で感受性に乏しく、創造性とは縁遠い人に見える。共通の感性がまるで見いだせない。
フランツは皇帝らしく素朴な人であり、勤勉実直に生きることを嫌に思わない。むしろその事に生き甲斐を見出だせるタイプの人間なのだと思った。
ただ、これだけ性格も住む距離も離れていようと二人の間に何か揺らがないものを感じるのは史実ならではだと思うし、ミュージカルの中よりも、史実はとても重く複雑で難解だった。


※ルドルフ。
フランツ・ヨーゼフとルドルフの関係を少し書き留めておく。
彼は海軍少将の軍服を愛用し、父フランツが陸軍軍服なのに対して、海軍に拘りがあったそうだ。親子で違う軍のものを着て視察したことが書かれている。
また、ルドルフの死後、発見された最後の書簡からは母エリザベートや末の妹への言葉はあるが、フランツに対しては一文字もなかった。
後述するが、ルドルフの方からしたら当たり前なのかもしれない。
幼少期迄の教育のされ方が自由主義、思想(エリザベートが選んだ教師)、古典主義(ゾフィーなどが選んだ教師)と半々にされており、精神的に不安定になるのも無理はない。
感受性の豊かな母似の子であった旨が供述されてあり、これはミュージカル「エリザベート」でもとても大事にされているポイントの1つではないだろうか?
フランツが積極的に教育に関わる暇もなく、ルドルフはある一定の時からよく勉強をする扱いやすい少年から、物事を素直に受け取らない皮肉屋に変わっていった。
教師たちには殊勝な言葉を口にしながら、自らはその逆を考え、傍若無人な態度になり、生活は荒んでいった。
こう見ていくと、彼が父と反対の思想を持つのはなるべくしてなったのだと思うし、同時に豊かな感受性が邪魔をし、父の統治する世界で生きるには無理があったように思った。余談だが、精神的に不安定なのはエリザベートの血筋でよく見られたことのようだ。(湖で死んだルードヴィッヒ二世や精神病とされたその弟オットーら)

この謎の死については様々な脚色がなされており、情熱的かつ儚さなどをもって語られる悲劇の主人公となっている。「うたかたの恋」「ルドルフザラストキス」などの原作本は目を通したぐらいでじっくり読んだことがなかったので、この機会に読んでみようと思う。



※フランツの政策的な面の年表(晩年は割愛)

1848年 三月革命の最中に即位。
ハンガリー独立運動に苦戦を強いられる。

1859年 ソルフェリーノの戦い VSフランス(ナポレオン三世)

フランツは結果的に惨敗し、イタリアでの戦いをやめた。ハンガリー独立運動が激しさを増したため、和平を結ぶが、フランツは弟マクシミリアンがメキシコにいき銃殺という結果に終わったのは、フランス(ナポレオン三世)に担ぎ出されたせいだと思っていたらしいので、あまり良い感情はないようだ。


※フランツ「今日も戦争ばかり フランスとの外交 財政は破綻したまま 戦争は続いてる 革命の処理 チフスの流行」
シシィの居室で歌うシーンはおそらくソルフェリーノの戦いをさしていると思われる。


これ以降ドイツ連邦の形成とプロイセンビスマルクが力を持ち、オーストラリアとの外交関係の中心になってくる。
フランツはドイツ連邦において旧来通りのオーストラリアの地位を承認させたいが、ビスマルクの策により失敗。

1862年~1890年の退任までビスマルクの影響力はすざまじい。これにフランツが対抗出来なかったのは有能な助言者を欠いたためだとされる。

この時、ハンガリー独立、イタリア独立、プロイセンとの対決が同時進行でオーストリア皇帝に襲い掛かる。
フランツはマジャール人(ハンガリー)の自治権を受け入れざるを得ないのではないかと思っているが、ドイツ人が過半数の帝国議会は冷たい。

1866年 ケーニヒグレーツの戦い VSプロイセン(ビスマルク)
フランツはたったの1日で負けるがエリザベートはこれを慰める。この戦いはプロイセンの真の目的がフランスだったので、すぐに終わったのだ。
エリザベートハンガリーの自由(アンドラーシという人物の外相への起用)を求め、オーストラリアからの独立を求める人々に寄せた態度をとる。
エリザベートは元よりマジャール人(ハンガリー)贔屓で、ゾフィーは真逆。後半ゾフィーの権力が衰えるとともにハンガリーの女官が増えるのが分かりやすい。
ここで後々ルドルフが(史実でもミュージカルでも)口にするドナウ王朝という考えが生まれる。終始フランツは全てと共存していきたい考え。温厚である。


※ミュージカル「エリザベート」のルドルフの「僕はママの鏡だから」の一節にある
「ママは昔ハンガリー助けた。ドナウ連邦」が指すハンガリーを助けた史実はこの戴冠式前後のことを指すと思われる。

1867年 オーストラリア=ハンガリー帝国 戴冠式
フランツは国内情勢の悪化を危ぶみ、軍事強化をはかる。

1869年 フランスVSドイツ(普仏戦争)
どちらにも加担せず、中立でいたフランツ。
フランツは負け続け、ナポレオン三世退位。
ドイツではビスマルクプロイセンの建設を目指していたことがわかる。
またこの際に勝ったドイツ軍が勢いにまかせ、フランスのヴェルサイユ宮殿戴冠式を行ったことは後世に影響を及ぼす。


1873年 三帝同盟(ドイツ、オーストリア、ロシア)
対フランスのためにドイツと協調路線をとる。

1878年 ベルリン条約
この際にボスニアを支配下に置き、ロシアとの関係は冷えきる。

この辺りでルドルフが地下新聞での執筆活動を盛んにしている。
彼はオーストリアの後進はカトリック教会にあるとしている。補足としてとしてフランツもルドルフも熱心なカトリックの信徒であり、宗教上離婚と自殺は認められていない。また、ルドルフは強大なビスマルク率いるプロイセン軍国主義を恐れ、協調路線を歩む政府に反対していた。
尚、地下新聞の発行者ツェップスはユダヤ系急進自由主義

ルドルフはベルリンを訪問しビスマルクと政治情勢について意見を交わしている。
ドイツとオーストリア両国の同盟関係は不動であるといった趣旨のことを述べられている。
(ビスマルクの今までの行動を見ると白々しいようだが、ロシア皇帝も平和的路線に政策を変更したことに基づいている)

ルドルフとしては彼なりの政治理念があり、ハンガリーとは分離した形でドイツ人によるオーストリア帝国を建設しようと試みていた。それはフランツの諸民族の融和を説き「一致協力して」帝国を治めようとするものとは相容れなかった。
この本にはルドルフについては大体このような流れが書いてある。
死ぬまでの素行の悪さや結婚、離婚騒動、宗教的なことなどについてはざっくりとしか書かれていない。


※フランツの皇帝像について
年表や思想を見ていくと彼は本当に「遅れてきた君主」であった。生まれる時代を間違えてしまった。というのが正しい表現のように感じる。
きっとハプスブルクの末期ではなく、その半ばの貴族社会に生まれていれば名君とも呼ばれたのではないか?とさえ思った。
もの穏やかな性格を持ち、特定の民族を偏愛せずに国家の統一を真剣に考えていた。

この時代には「シュランペライ」という精神がある。
フランツが信頼し、期待していた上流階級は一度その地位につけば、よほどのことをしなければ順調に年齢と共に出世できる。勤勉で厳格なプロイセンならすぐにでも免職になりかねないにも関わらずだ。この「シュランペライ」精神がばはびこることで、オーストリアの役人たちは仕事に精を出さず、結果的に自ら堕落と崩壊を招いていくことになる。
このような生温い体質が大体すべての役人に適用され、オーストリア=ハンガリー帝国の発展を妨げていた。そしてフランツ自身もその精神や汚職、退廃にに口出しをせず、むしろその負債に黙々と耐えた。そして統治後半には助言者もおらず「孤立独歩」していく皇帝になった。
フランツは旧式を重んじた。ハプスブルク600年の歴史を自ら好み、その重みを背負って生きてきた皇帝であったといえる。

自由主義、民主主義、愛国主義など様々な権謀術数がうごめく新時代の中で、時代にそぐわなかったのだ。
心から古めかしいものを愛し、新しいものを嫌った。極端なエピゾードだが、文明の利器である自動車や電話を利用しない人物であった。
また、新しい才能にも嫌悪感を示し、オーストリア保守主義のために目を出せなかった芸術家たちもいた。
生まれてくる時代が違っていれば、自身の未来、妻、息子の人生や死に方は違うものだったのかもしれない。その侘しさが最後に残った。


「われは旧時代の最後の君主なり」

自らもそう称していた。



そういえば、読みながらふと私の頭をよぎったのは霧矢フランツと古川ルドルフだった。
フランツは多分真面目な皇帝らしさとか少し鈍そうな所や優等生らしい印象(役者の印象でもあるが)がどこか思い出させる。まめな手紙やエリザベートへの愛がよく分からない所も。
ルドルフは想像以上に穏やかではなかった所や元からの青白さや生き方の儚さの裏にあるいかがわしさをなんとなく感じていたからだと思う。古川ルドルフをみた時に、エリザベートのルドルフに拘る必要ないルドルフができそうだなと感じたからかもしれない。


伝記はその人物悪く書くことはあまりない。だが、フランツのようにこれだけ際立ったエピソードのない人が真ん中に来る話はこれぐらいしか見かけない。
たったの400ページで、世界史が不得意な人間がとても楽しめるので是非お勧めしたい。

ハプスブルク家があつい。


※一気に書き上げたので誤字などを後々訂正するかもれません。